Author: Y. Kobashi (小橋康章), All Rights Reserved.
Date : 2007年10月31日(加筆更新); 2007年9月19日(このサイトに移動); 2006年6月22日(更新); 2002年6月29日(作成)


聖ペテルブルク vs セント・ペテルスブルグ


小橋康章


はじめに

ある梅雨の週末,なにかまとまったことをする元気もなく「心理学が描くリスクの世界:行動的意思決定入門」のページをめくっていると,

1713年 Nicolas Bernoulliは人々が次のルールを持つ賭けにいくらで参加するか、に関心を抱いた。... これは聖ペテルスブルグのパラドックスとして知られている。25年後、彼の甥である Daniel Bernoulli はこれに解を与えた(p.26)。

という一節に行き当たった.「ダニエル・ベルヌーイによる聖ペテルスブルグのパラドクス」という表現は意思決定理論を多少ともかじったことがある人なら誰でも知っているはずである.確率論で名を残したベルヌーイ家の人々は多いし,その一人が期待利得に関するパラドクスに関わっていてもおかしくはない.しかし,なぜそれがロシアの第二の都市に関係があるのか,またなぜ「聖ペテル『ス』ブルグ」であって,聖ペテルブルクでないのか.

わたしが初めて聖ペテルブルグのパラドクスを知ったのは,1970年頃,学生として読んだ「ゲーム理論と行動理論」によってである.

この利得期待値最大化原理から,われわれはいくらでもわれわれの直観的な合理性の概念からはずれた「合理的」選択、つまりパラドックスを生み出すことができる。そのいちばん有名なのが,Daniel Bernoulli (1700〜1782)によるセント・ペテルスブルグのパラドックスとよばれるものである(p.12)。

むろんこのパラドクスで肝心なのは利得期待値最大化原理

一見たいへんもっともらしく聞こえるのであるが,実はこの議論を裏づけている合理性の基準についての仮定は,極端に理想化された非現実的なものである(ibid.)。
という点であって,名前の由来やその表記の仕方ではない.しかしこのセント・ペテルスブルグという表現はいつも気になっていたのだった.雨降りでやる気が出ないとどうでもいいことを調べたくなるのは,単なる性分である.調べる材料は手元にある何とおりかの百科事典とWWWに公開されている文書だけなので,かなりいい加減だが,エッセイにはこれくらいでも許されるだろう.

パラドクス

コインを最初に表が出るまで投げ続けて,初めて表が出たのがn回目だったときに2のn乗円の賞金がもらえるというギャンブルがあるとする.このギャンブルに参加させてもらうために,いくらまでなら支払ってよいか.

授業の中でこの問題に答えさせてみると,1円,2円,8円など,いろいろな答が出てくるが,100円以上の回答が現れることは稀である.ところが,

    ∞
 E(V)=Σ(1/2)n×2n=1+1+1+...=∞
    n=1

すなわち,期待値は無限大であるので,有限な金額ならいくら払ってもよいから,このギャンブルに参加させてもらうべきだというのが,(利得)期待値(の最大化の)原理にもとづく「正解」である.

この正解はわれわれの直観的な合理性の概念から外れている.「ちょっとおかしい」のである.そのため(聖ペテルブルクの)パラドクスと呼ばれており,ダニエル・ベルヌーイが解法を考案したものとされている.

ベルヌーイの解法

このパラドクスから抜け出すため,ベルヌーイは以下のように考えた.人間は期待値の最大化を図るべきであるが,このギャンブルのような場合,期待値は金額そのものについてではなく,額面が示すお金の意思決定者にとっての本当の価値について求められるべきである.そのような主観的な価値は金額の単調増加関数ではあるが,その増大率はもとの金額が大きくなるほど減少すべきである.そこで,ベルヌーイは金額の対数をとることで金額の本来の価値を表現することを提案した.

x円の本来の価値 U(x) は log x であるとすると,本当の価値E(U) は次のようになる.

   ∞
E(U)=Σ(1/2)n×log 2n
   n=1
  =(1/2)×log 2+(1/2)2×log 22 +(1/2)3×log 23+...

これは一定の有限の値に収束するので,パラドクスは起きない. ベルヌーイはこれを精神的期待値(moral expectation)と呼んだ. 期待効用(最大化の)原理の最初の表現だと言われている.

聖ペテルブルク

ロシアの大都市の中で最も西に位置し,最も西欧的な雰囲気を持つ現在のサンクトペテルブルク(聖ペテルブルク,Санкт Петербург)は,かつてロシアの2つの首都のひとつでもあった.1971年の夏にこの街を訪れたとき,実に運河と橋の多い,雨のよく降る,そして雨上がりの空が薄青く澄んで清々しい街だと思った.北のヴェネツィアの別名があるそうだが東のアムステルダムと言っても良いであろう.

1696年から西欧を歴訪し,オランダのザーンダム(Zaandam),イギリスのデプフォード(Depford)で造船を学ぶなどしていたピョートル大帝(1672-1725)が帰国後の1703年に建設をはじめた街で,もともとオランダ語でピーテルブルフ(Pieterboerg ピョートルの市城,後にペトロパブロフスク要塞になるピーテル要塞の名が街の名称に)と名付けられ,後にロシア語のサンクト(聖)を冠して,サンクトピーテルブルフと呼ばれていたのだが(現代オランダ語ではシントペーテルスブルフ Sint Petersburg),1825年にドイツ語風にザンクトペテルブルク(Sankt‐Peterburg)と改名された.1914年ペトログラード(Petrograd),1924年レニングラード(Leningrad)を経て,1991年サンクトペテルブルクに改名.英語ではSaint Petersburg セイントピータースバーグ

1712年ピョートル大帝が家族をつれて宗教色の濃いモスクワから,宗教指導者の反対を振り切ってこの地に居をうつしたのにともない,モスクワにかわって帝政ロシアの首都となり,18世紀後半までにはヨーロッパを代表する文化都市のひとつになっていた.
(Grote Winkler-Prince百科事典“Leningrad”の項,Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 「サンクト・ペテルブルグ」の項,平凡社世界大百科事典CD-ROM2版,川端香男里,「サンクト・ペテルブルグ」の項などによる)

ピョートル大帝が没した1725年にスイスのバーゼルからサンクトピーテルブルフに移り住んできたのが,オランダ生まれのスイス人ダニエル・ベルヌーイ.

ダニエル・ベルヌーイとベルヌーイ家の人々

スペインの支配に追われ,フランドルからアムステルダムを経てスイスに移住したベルヌーイ家のニクラウス・ベルヌーイに3人の子があった.ヤコプ(Jakob (Jacques), 1654-1705,死後の1713年出版された「推論術」の中で大数の弱法則を証明.不十分理由の原理の提唱者でもある),ニクラウス(1662-1716),ヨハン(Johann I, 1667-1748)のうち,2番目のニクラウスには同名の子で数学者のニクラウス(Niclaus I, 1687-1759)があった.末っ子のヨハンにはニクラウス(Niclaus II, 1695-1726),ダニエル(Daniel, 1700-1782),ヨハン(1710-1790),の3人の子があり,ダニエルは父ヨハンが1695年以後オランダのフローニンゲン大学の教授だったときの子なので,オランダ生まれである.はじめは数学に興味をしめしたが1721年バーゼル大学で医学士となった.1725年サンクトピーテルブルフのロシア科学アカデミーの数学教授となり8年間滞在した.父ヨハンの弟子で数学者のオイラーもこの時期サンクトピーテルブルフに居り,協力して研究した.のちスイスにもどりバーゼル大学で自然哲学,解剖学,植物学をおしえた.1738年に表した「流体力学」の中で提出したベルヌーイの法則で特によく知られている.同じ年に聖ピーテルブルフのアカデミーから出版されたが実際にはそれ以前に執筆された,確率と期待値についての論文の中で,聖ペテルブルクのパラドクスとして知られるようになった問題の解法が論じられており,期待効用理論の嚆矢と考えられている.
Daniel Bernoulli and the St. Petersburg Paradox,Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 の「ベルヌーイ,D.」の項 ,平凡社世界大百科事典CD-ROM2版,清水昭信・橋本毅彦,「ベルヌーイ家」の項,セントアンドリュース大学The MacTutor History of Mathematics archiveなどによる)

ただし問題そのものは従兄弟(伯父ニクラウスの子)の数学者ニクラウスが1710-1712年にフランスの数学者モンモール(Montmort,P.R., 1678-1719)と交わした書簡の中に現れており,モンモールの著書「偶然ゲームに関する解析の試み」"Essai d'analyse sur les jeux de hazard" (Paris, 1713)の中に再録されている(翌1714年に出た同書の第2版に載ったという説もある).ニクラウスは才能豊かな数学者であったが出版された著作は少なく,彼の業績の大部分は他の数学者に宛てた書簡の中にあるという.1712年から1716年にはライプニッツとも書簡を交換していた.そういえば哲学者デカルトの仕事も多くは精力的に書かれた書簡の中にあり,それらは筆写されて回覧されていたようなので,こうした書簡は現在のニューズレターのはしりとも言えよう.
(平凡社世界大百科事典CD-ROM2版,清水昭信・橋本毅彦,「ベルヌーイ家」の項,Nicolaus(I) Bernoulliなどによる)

ダニエルの兄でサンクトピーテルブルフへの行をともにしながら1726年に早世したニクラウスがこの問題を発見したという説(Grote Winkler-Prince, Elsevier, 1967, “Bernoulli, Niclaus II”の項)もあるが少数派のようである.

また,同じくスイスの数学者クラーメル(Gabriel Cramer)がダニエル・ベルヌーイより10年前に同じ解を提出していたとの説もある(Bernoulli and the St. Petersburg Paradox).

結論

のちに聖ペテルブルクのパラドクスと呼ばれることになった問題は,スイスの数学者ニクラウス・ベルヌーイが1710年頃フランスの数学者モンモールとの交換書簡の中で初めて言及し,従兄弟のダニエル・ベルヌーイが,おそらく1725-1733年の聖ピーテルブルフ滞在中に解決した.その論文は1738年聖ピーテルブルフのロシア科学アカデミーから出版された.パラドクスの名前はこのどちらかに由来するものである.ただし,この結論は一次資料によるものではないので信頼性に問題は残る.

またその日本語表記は,サンクトピーテルブルフのパラドクス,サンクトペテルブルクのパラドクス,セイントピータースバーグのパラドクスなどとするのが適当である.ただしサンクト,セイントは聖としてもかまわない.


Copyright (c) 2002 by Yasuaki KOBASHI(小橋康章), Tokyo, Japan
2002年6月29日 初版

2007年9月19日 加筆

高田洋一郎(1992),(戸田正直(1992),「感情:人を動かしている適応プログラム」の補稿「効用と適応」)にサンクトペテルブルクのパラドクスそのものに関するより詳しい解説と,フェラーによるもう一つのパラドックス解決案の紹介があります.


2007年10月31日 加筆

ウィキペディア日本語版に2006年1月16日以来このパラドクスについての記載があり,現在「サンクトペテルブルクのパラドックス」という長文の項目になっています.そこから英語版や「ダニエル・ベルヌーイ」の項目へのリンクがあります.


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